2006年 5月
最近は、相手と意見が違ってひとつに纏まらないことにはどうも納まりがつかない、
後味が悪いという流れがあるような気がします。
元来日本人は“和を持って尊し”とするきらいがあり、
ディベートと言われるような意見のぶつけ合いは確かに苦手です。
ですが、昔から言われるように“沈黙は金なり”又は“無言は雄弁を語る”などと言うことは、
時代の変化と共に黙っていてはわからない、自分の言葉で相手に気持ちを伝えようという形に
変わって来ていたはずでした。
処が今の人、特に若い人を中心に、自分が傷つく事、そして相手を傷つける事を極端に怖れて、
相手と意見が違う場合にダイレクトにその異なる意見をぶつける事を避ける・厭う、
結果本人が納得していないのにも関わらず、表面だけ合わせて何も言わずに流してしまう。
そういうことが多くなってきた様な気がします。
そこで、本当にそれでいいのなら構いませんが、心の中では、どこかで
“言わないけど解ってくれたらいいのに”という相手に対する依存と、
それを相手が解ってくれなかった時に“酷い”という相手に対する非難が生じているようです。
昔の“言わない”というのは仮令解って貰えなくても、自分が“言わない”という事を選んだのだから、
その結果は全て自分に帰因するという腹の括りがあったはずです。
ところが、今の“言わない”は、自分が手を汚す事なく、
事が自分の思うように、進んで欲しいという傲慢さが裏に見え隠れします。
形だけ見れば、自分の意見を抑えて、相手を尊重している様な
奥床しさの衣を着ている雰囲気に見えますが・・・。
実はそうではないのですよね。
良く“何が食べたい?”と訊いて“何でもいい”というから“じゃあコレにするね”と決めると、
膨れて“ホントはコレが食べたかったのに・・・。”と拗ねる。よくある話です。
このように直接相手にぶつかる事をせず、まるで隔靴掻痒の如く、いやらしく間接的なゴリ押し、
でも本人は自分の意見を相手にゴリ押しした訳では無いので、決して自分が傲慢であるとは夢にも思わず、
むしろ“自分はとってもいい人”と勘違いしている。どこかおかしいですよね。
自分の意見を言わないという事は、その件に関しては、
相手に白紙の委任状を渡したという事と同じなんですよ。
どんな結果が出ようと、そこに文句を挟む余地は無いし、
もしそれが嫌ならば、初めから怖れず自分の気持ちを相手に伝えましょう。
只、その際に言葉と言い方は喧嘩腰にならぬ様、ちゃんと選んで下さいね。
日常の小さな事から大きな事まで、全てに対して言える事です。
“和”というのは手をつないで和む事であり、“輪”の中に入るとか、
はじく・はじかれるという事では決してありません。
“ワ”違いをせぬようにしましょう。