2006年 1月
今月は年頭にあたって新ためて“親”について考えてみたいと思います。
“親”と言っても、昨今ではその母性愛や父性愛のかけらも見られない様な
事件が多々起こっています。
確かに母性や父性というのも生まれつきある訳ではなく、
子を育てて行く内に自然に備わっていくものかもしれません。
しかし、普通の形で言えば、親の愛情と言うのは誰しも感じたことがあるでしょう。
又親であるならば子に対する無償の愛情は解るはずです。
そこで、こんなお母さんの話です。
「子供にね、“一緒に倖せになろうね”って頼んだの。
私はあなた達を倖せにする為にどんなこともするし、頑張る。
だけどあなた達もお母さんを倖せにする為に頑張ってね、
そして、みんなで倖せになろうね。だって、どちらか片方の一方通行では無理だもの。
決して一人だけで頑張らないって決めていたから、だからやり通せたの。」
この話を聞いて、皆さんはどう感じますか?
親というものは、躰にしても心にしても、子供が辛い時に自分が代わってでも
受けてやりたい・救ってやりたいと思うものです。
親の愛情を受けるのは経済的保護も含めて、どこかで当たり前になってしまい、
その有難味に気が付かないのです。
それが無くなってみて初めて解るものですが、親の愛は、生きていても、
仮令亡くなっていても、歴然と其処に在るものです。
あなたは親が倖せであるために、何か頑張っていますか?
どんな小さな事でもいい、心で想うだけではなく、言葉や行動に移してみなさい。
それが、お墓参りであってもいいんですよ。
人の眼は気にする必要はないですが、親の眼には自分がどう映っているのか、
ここで新ためて考えてみることも大事です。
“親”があっての自分ですよ。