2007年 7月
例えば、同じ花を見ても、ソレに対する感じ方は、人各々違う筈です。
“綺麗”というのは、共通で在ったとしても、其処に付随する想いは、様々ですから・・・。
処が、ボキャブラリーが品祖なのか、皆が同じ一面化してしまっているのか、
何でもかんでも“キャーカワイイ!”で済ましてしまう。
そんな想いを感じた人もいませんか?
“其処はそうちゃうやろ”と突っ込みたくなります。
それともうひとつ“セカチュー”以来、純愛ブームが続いていますが、
“皆が涙した”とか“世界が泣いた”とか、まるでそれを観て泣かない者は、人でないかの様に
何だか半脅迫的お涙頂戴のような気がします。
勿論いい話ですから、受ける感情は、可哀想・悲しい・辛い・耐える・そして最後は良かった等と
色々在りますが、それこそどう想うかは、その人一人々別であっていい筈です。
何も一緒である必要は無いのです。
なのに、回りも同じ感想をを求め、“アンタもそう想うやろ、ナァ!”と無言の強要をし、
又そうでない感想を持った者も、“合わさなくてはいけない”と想い、違う感想は言えなくなってしまう。
まぁその場の雰囲気を壊してはいけないという配慮も当然あるのでしょうが、
何だか“ナンデ?”と感じます。
同じ物事や事象を見ても、見る者の立ち位置が違えば、見えてる景色は違っている、
決して同じでは無いんだ。という事を基本認識として置いておくべきです。
サイコロを見て、あなたからは1に見える。処が、あなたの向かいにいる人には6が見えてる。
上からは2で、下からは5。右からは4で左からは3です。
解るでしょう?とても当たり前の事なんですが、同じ感情で同じモノを見ていると錯覚しがちです。
もっと例を言うなら、あなたは良かれと想い、親切でしてやったつもりでも、
果たして相手はソレを望んでいたのでしょうか?
ひょっとしたら有難迷惑の場合もありえますよ。
自分のポジションからはこう見えているけれど、相手のポジションからはどうなんだろう?という
思索も必要です。
ま、いつも々そればかり考えろという訳ではないですが、
仮令、友達・恋人・兄弟・親子であったとしても、見えている景色は同じではない。
これを心に留め置いて居れば、感情の処理の仕方が随分楽になります。
“答えはふたつ在ってもいいんです”