2009年 2月
よく“慈悲の心”と言いますが、そもそもこの“慈悲”と言うのは、
お釈迦様の両親を表す処から来たものだそうです。
まず“慈”というのは、“慈父”から来ており、慈しみの心を持ちて、
子に自ら人の道を示すという事だそうです。
そして“悲”というのは、“悲母”から来ており、優しさの心を持ちて、
子の悲しみを受け止め、包み込むという意味です。
この恩思恵の中で、親については何度もお話しておりますが、
いつも子供からの目線での感謝の心を忘れぬ様、説いていたように思います。
逆に今回は親としての立場からの目線での話です。
各々が父であり母である貴方は、この様な想いで自分の子供達に接する事が出来ていますか?
男として人の道を示すと言うのは、中々大変な事で、仮令それについて良い事を言ったとしても、
“よう言うわ!ほな自分は?!”と反撃されるのがオチだったりもします。
子供も親以外の他所のおっちゃんの言う事なら“あのおっちゃん中々エエ事言うねんで”と
受け止める癖に我が親の言う事は馬鹿にして端から聴こうとしません。
まあ親子であるからの照れもあるかもしれませんが、可愛かった小さい時の様にはいかない。
となると、言葉でどうこうではなく、自ら己が人として恥ずかしくない生き方
「といっても主観で様々あるでしょうが、少なくとも己の勝手気儘さで人に迷惑を掛けたり、
バランスを崩さない」を常に自問自答しながら、して行くしかないのでしょうね。
其処に子供がどうとか言うのはなしにしておいて、格好悪い処も、
世の中自分の思う程上手く行かない大変な処も、そしてどんなに大変でも其れを投げ出して
しまう訳にはいかないと頑張ってる処も、全部含めて人の道というのはそういうものだからです。
次に母である貴方は、子供の悲しみや苦しみを、マリア様の様に柔らかく受け止めてあげられていますか?
よく女性は“母や妻である前に、私は一人の女や”と主張したりしますが、母と女は別物ではありません。
女で在るからこそ母になれ、女で在るからこそ柔らかく抱きしめる事が出来るのです。
最近は、それをするよりも自分の方が大事だとか、自分の欲の方が先に立って、
子供は後回しとか“お母さんはこれだけあなたの事を想っているのよ!”と構うフリをしながら、
実は子供に依存して、子供からの優しさを期待している間接的自己中、なんてのもあります。
中には“女として生きたい”と夫以外に走っているのもあったりして・・・。
そう考えると、自分の悲しみはグッと堪えて、相手の悲しみを包み込むというのも
是も又、至難の技です。
いくら自分がそう思って抱きしめても“キショイ!ウザイ!”とばかりに突っぱねられたりして。
やっぱり母も大変ですよね。
まあスタンスとして“辛い事や悲しい事、自分ではどうしてエエか解らへん事があったら、
いつでも言いよ”と心の腕を広げている事だけを伝えておいたらそれで良いと思います。
この頃は何だか親が子供に気を遣っているという風潮ですが、“気を遣う”のではありません。
“気を配る”のです。“何時も此処にいるからね”という気をです。
是は嘆きでは無く、今を生きているお父さん・お母さんをしている人へのエールです。