2010年 8月
何事に於いても自分が事を習得し、以前よりも成長しようと思えば、
其処には必ず指導者である師が存在します。
保育園や幼稚園の頃から大学院に至るまで全てそうで、
仮令社会に出てからも知恵や知識を得、成長する為にその道の先輩にも教えを請います。
そして何時しか自分が今度は指導していく立場へと変わって行きます。
だからと言って、其処で自分の学習が終わった訳ではなく、
人に教えながら同時に自分に言い聞かせているのと同じ事で、
実は指導すると言うのは、自分ひとりでの勉強よりももっと大変なのですね。
人間一生勉強と言いますが、正に其の通りです。
その師の存在が親であれ、教師であれ、誰であってもいいのですが、
「人生に於いて“優れた師”を持っていなければ無為な徒労が待っている。
何故なら絶えず揺れ動く我儘で横着で臆病で傲慢な我が心。
言い換えれば“自我”を師とするしかないからだ。」
是は作家の宮本輝さんの言葉ですが、本当に其の通りだと思い、其処に私の解釈も加えました。
例えば何もしてくれないご主人に腹を立てている奥さんがいる。
“私が言わなくても解ってくれたらエエのに”と思う。
でも其れはまず貴方の我儘で、相手は気が付かないだけで、もし言えばしてくれるかもしれない。
“でも一々言わなアカンねんやったらそんな邪魔くさい事ご免やわ”と言う。
是が第二の横着。
自分自身が変わらないと状況も相手も変わる筈が無いのに、
“もし言って、何で俺がせなアカンのや!と偉そうに言い返されらそんなアホらしい事嫌やし傷つくわ”
是が第三の臆病。
そして言わないと決めたのならば、相手の所為にして怨むのではなく、相手に頼らない、
自分がすると腹を括ればいいのに其の恨みは抜かない。
是が第四の傲慢。
此の様に“自我”というのは常にどんな状況下に在っても自分目線でしかなく、
全て、私が・・・、私は・・・、私を・・・。
とても一人称の世界です。
いつもサイコロの1と6と言っています様に、
決して物事は自分の見えている景色だけで済む問題ではないのです。
人の言う事に聴く耳を持つ柔軟な心を持って、誰の言う事でも聞けと言う訳ではありませんが、
あなたが信頼できる“師”という存在があれば自分の事も含めて、
客観的に、冷静に現状を見る事が出来るでしょう。
あなたには其れに当たる“心の師”は居ますか?
もし私が其れに当たると思ってくれる方が居るのならば、其れはとても嬉しい私への祝儀袋です。