2012年10月
人の感情には“喜・怒・哀・楽”の四種類があると言われます。
陰と陽で捕らえてみると、喜と楽が陽で、怒と哀が陰の感情です。
当然陰はマイナスの力ですから其れを入れてしまうとエネルギーを奪われてしまう事になります。
中国の問題もそうですが、人には人の数だけの真実があります。色んな人がいます。
色んな事を好き勝手に言います。
皆自分と同じ等と安心していると足元を掬われる事にもなりかねません。
毎日の生活の中、仕事に於いてもプライベートに於いても時にどう考えても理不尽な仕打ちが
降りかかって来る事があります。
今多くの子供たちが自ら死を選んでしまう様な“いじめ”も其の代表例でしょう。
そんな時に其れを受けて怒れるパワーが在るのならばまだOKです。
“何でそんな事されらなあかんのや!間違うとるのはそっちやないか!”と反論を持って
戦えるのならば己の自我は崩れません。
ところが日本人の多くはその性分も相まって、
“出来る事なら戦うのは良くない。喧嘩なんかせえへん方がええ”と、まともな者ほど
其の理不尽な仕打ちから受けた毒が心と身体の中に回ってしまい哀しくなってしまうのです。
“何で解ってくれへんのやろ。僕は是だけ誠意を込めてしたのに。何で善意を踏みにじる様な
事をして平気なんやろ。もしかしたら僕の力が足りへんかったのかもしれん。
僕のやり方が間違っとったのかもしれへん”と仕舞いには相手に対する恨みを超えて、
自分自身への呪詛にも摩り替わってしまいかねません。所謂自己否定ですね。
明らかに悪いのは相手であるのにも関わらず、己の自我の崩壊を呼んでしまうのです。
そうなると次の一手へと向かう気持ちもやり方も全て前へと進められなくなり、
その場に滞ってしまいます。
心の弱いものはそんな時に欝の誘惑に嵌るのかもしれません。
そんな事は無いに越したことはないのですが、アクシデントを自分で制御する術はありません。
ですから、少なくともそんな事に対して“哀しくなってしまわない”という教えを忘れては
いけません。
起きてしまった事は変えられませんが、其れをどう受け止めるかは変える事は出来ます。
最初の喜怒哀楽をもじって“喜楽の度合い”と覚えましょう。
人の心にとってとても大事で大切なのはまず嬉しい、次に楽しい楽である、
そしていつも在ってはだめですが時には怒りのパワーが発散に成る事も在ります。
最後に自分で自分を哀しむというのは被害者意識にも繋がりかねませんから、
出来るだけ持たない様にしなさい。
其の為の順番が“喜楽の度合い”なんですよ。