2014年 9月
日々の生活の中で自分の価値観に照らし合わせてみれば、当然何の疑いもなく其れが正しいと
思っている事があったとしても、相手にとってはどうであるかは又別問題である。
是は常に私が言っている事である“サイコロの1と6”理論ですが、
改めて“ああやっぱりそうなんやな”と感じる事がありました。
ちょっと痴呆になった親が居て、その家のトイレが旧態依然とした汲み取り式の和式である。
どう考えても痴呆の上に足腰の弱った親に対して、危ないし不衛生だし大変だと思い、
最新の洋式水洗トイレにリフォームした。処が親はそのトイレで用を足そうとしない、
ともすれば家の中の他の場所でしゃがんでしてしまう。
何度言っても言う事を聞いてくれない、困ってしまった息子さんが相談に来た。
其処で観てみると、痴呆の入っている親の経験則に因るイメージが、長年ずっと自分が行って来た
行為がインプリンティングされていて、新しい形を受け入れるメモリースペースが無かったのです。
息子さんは当然親孝行の為にしたのでしょうが、豈図らんや当人にとっては違ったんですね。
そして又親の話ですが、同じく痴呆が入りだした母親を其処だったら入れるという事で
ケアマネージャーと相談をしてグループホームに入れた。
まあ始めからどこに行っても文句が出るだろうと予測はしていたが、
やはり“帰る、帰る”と駄々をこねる。
何日かを経つ内に大分と落ち着いては来たが、自分達も何だかこの小さな設備も十分ではない場所に
母を入れておくのは忍び難いと感じ、大きな有料老人ホームの方が良いのではないかと思ったが、
100人待ちだと言われた。
其処でどの世界にも裏は在るもので、伝手を使って少しは待たなければならないが、順番をジャンプした。
広々とした青い芝生のある大きな最新設備が揃っているとても綺麗なホームだそうです。
“本当に是でいいんでしょうか?”と訊ねに来られた。是もやっぱり違ったんですね。
娘さん夫婦は仮令自分たちが高いお金を出してでも母親を綺麗な場所で過ごさせてやりたい
と思ったんでしょう。処がお母さんは相当に我儘なお方でしたから、当然其の大きな施設では
規則や決まり・ルールに縛られる、又其の規約を守れないと大人数を束ねる運営はしていけませんから
当然なんですが、其れが苦しくて合わない。
無理矢理に合わないサイズの服を着せられている様な感じになるのです。
その点小さいグループホームの利点は設備は不十分であったとしても、
職員の人達も入居者一人々に合った臨機応変なオーダーメイドの対応が可能だったのです。
其れを伝えると、
“ああ気が付かへんかった。高価で綺麗なものが良いもの・素晴らしいものやと思い込んでた。
いつやったって人は一方的な自分の価値観だけで見てしまうものやね。
先生ありがとう、今わかって良かった”と帰って行かれました。
最近は皆さん親も長生きですから、此の様に介護や何処で生きるかなどの問題が
歳いった子供の上に掛かってくるという事が多くなってきました。
もしそんな場面に直面した時には、今元気な自分達の価値観や見え方だけで
決めてしまってはいけないという事でしょう。
何も是だけに限った事ではありませんが忘れてはいけない大事な人としての教えです。