2015年10月
自分の身に起きる事柄は、仮令其れが来て欲しくない・決して望まない、
辛い・悲しい事であったとしても、その事実を変えられないのであるならば、
其れは必然と受け止め、次に自分が何をすればいいかを考えなさい。
其処から何を解れと言われているのかを感じなさい。
という教えを私はずっと伝え続けて来ました。是は釈迦の教えでもあるのですが、
毎日の生活の中で自分がちょっと考え方や見方を変えれば良いだけでの事ならば、
誰でも簡単に納得して実行できるのでしょうが、
其処に人の不幸や死等という譬え様の無い悲しみや苦しみが来た時に、
幾ら其れを必然やと思えと言われても、此の起きた事をそんな風には思われへん。
其処には一体何の意味があるのですか?と尋ねられました。
最近も川島なお美さんが54歳で亡くなりました。私の義姉も57歳で向こうへ行きました。
人を悼む気持ちをどう受け止めて、どう昇華させるかは、
亡くなった者ではなく、見送った者の永遠のテーマなのです。
人一人の力なんてたかが知れています。
自分の匙加減一つで幾らでも絶望の淵に追い込む事は簡単です。
でも其れをしてはいけないのです。
抑々仏教はお釈迦様の母を失くした悲しみから生まれたものです。
2500年も前の事ですが、釈迦を産んだ7日後に母が亡くなります。
物心が付いたお釈迦様は“なぜ私には母が居ない。母は私を産んで死んだ。
私を産んだから死んだ。私を産まなければ死ななかったかもしれない”と
其れこそどんどん絶望の淵に追い込みます。
其の意味と其処から生じる意義を死ぬ程探求した結果、悟りを開いたのです。
だから悲しみや苦しみの中にいる人達に仏教は優しい。仏様はいつも傍に居る。
其れに支えられている。悲しみが仮令消えなくても、苦しみが仮令無くならなくても、
寧ろ其の中から何か大切でとても大事な新しい事が生まれて来るかもしれない。
仏様に手を合わせる事は決して他力本願などではなく、人の力ではどうする事も出来ない
悲しみや苦しみを、仏様に委ねて、持ってもらうのです。
昔は、嫁ぐ娘に其の子の守り本尊を持たせました。
其の子に縁のある仏様を柘植の木で彫った小さな懐仏をです。
“辛い事があったら、此の仏さんを拝んで救けてもらうんやで”と。
今はそんな風習も無くなりましたが、自分の好きな心魅かれる神仏で良いんです。
別に何の宗教に入らなくても構いません。石切神社のお百度参りもそうですが、
自分以外の者の倖せと我が心の安寧を一心に願う、只それだけで良いんです。
そうする事で悲しみは、只悲しみだけでは終わらない。
苦しみが、只苦しみとしてだけで終わるのではなく、其れが力となり、其の人を奮い立たせ、
前へと進ませる・やり遂げる力になるのです。
悲しみや苦しみは決してマイナスではありません。
だからこそ其処から生まれて来る事が在るのです。
(手塚山大学の西山先生のお話しを聞いて、心に感銘を受けて書きました。)
人には“悲しみの力”が在るのです。其れが“慈愛”なんですよ。