2016年 1月
2016年、又、新しい年が始まります。
時代と共に形はどんどんと変化していき、此の様にいつの間にか
年号も西暦で表すのが普通になりました。
他の事でも昭和はもう骨董品らしいです。
そりゃ平成になってからでも早30年近く経つんですもんね。
でも変わり行くものの中で人として変わらぬものもある筈です。
何だか一休さんの禅問答の様になりますが、
仏の教えの中に“小は大であり、一は一切である”という文があります。
まるで相反する矛盾の真理の様にも思えますが、
全ての物事は一から始まり、大きなものは、小さなパーツの塊であるという事です。
ジグソーパズルを浮かべてみれば解ると思いますが、初めの一つのパーツを置く時には、
当然、完成した形を思い浮かべて始めます。そして出来上がった時には
“ああ此処から始めたんやな”と最初の一歩を思います。
どんな事でも結果は全て小さなものごとの積み重ねであり、其れが結果へと繋がるのならば、
小さな事の中にこそ真実があり、あたら其れを疎かにしてはいけないのです。
只、目の前の自分の欲や損得に捉われて始めるのではなく、
遠い先の望む結果を手にする為には、今自分が何をしなければならないか、
何を積んで行くべきかを理解した上で、動き始めたいもんです。
“一切衆生悉有仏性”という言葉も在り、此れはどういう意味かというと、
一人一人の人間の中には誰であっても皆悉く仏性有りということです。
では、仏性というと仏の心ですが、仏の心とは
まるで観音様の様に全てを受け入れて優しく包み込むと捉えがちです。
其れも決して間違いではありません。
しかし此処では、仏性というのを“仏の目であり、目線である”と捉えます。
仏は元々天上界に居ますから、あなたの目の前に起きている事柄を
相手と同じ地上の目線や感情で受けてしまうのではなく、其処にいる自分も含めて
空の上から見下ろす俯瞰の目を持つという事なのです。
其れが出来ると、なぜ相手が自分にそうするのか、そして自分はなぜそう感じているのかを
第三者の目で冷静に考えられる力を持てるのです。
相手の動向を受けて、腹が立ったり・憎んだり、又逆に傷ついたり・落ち込んだりしてしまう前に
ちょっと余裕を持って、変な言い方ですが幽体離脱してみるんですね。
ほら冷静に全体が見渡せるでしょう?感情に流されてしまう前に
“何でそうなるんやろう”と考える力が戻って来るでしょう?
よく小さな子に“何でも、何で何でって訊くな”って叱ったりしますが、
其れは子供がいっぱい考えている証なんです。
大人でもやっぱり“何で?”は忘れてはいけない・変わってしまってはいけない、
とても大切な事なんですよ。