2016年 3月
意識・知識というのは、何々はこうであるという主に情報から定まる。
情報というのは、脳に投影される信号の様なもので、
本来変わらない不変のデジタルチックなもの。
余程の事でも無い限り一旦インプットされた情報は、ほぼ永久である。
処が、日本人の考え方の根底には(主に仏教の影響が強いと思われるが)平家物語の諸行無常や
鴨長明の方丈記“行く川の水は絶えずして、しかも元の水にあらず”の一説にもある様に
この世に何一つ変わらぬものなど無い。
皆もの全て時の流れと共に変化して行くのだと言っている。
すると其処に矛盾が生じる。
確かに時代と共に全て変化・進化しているのにも関わらず、
其処に書かれてある“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり”という文節は
約1000年もの間全く変わらずに今も在る。
得てして意識・知識というのは変わらないものしか受け付けない。
既に正解の在るマークシートのテストやクイズの様なもので、同一である事に意義があるのだ。
其れ等は主に文字や言葉で括る事に依って導入される。
其れに対して人間にはもう一つ知覚・感覚という其れこそ文字や言葉では表せない
本能とでも云うべき動物由来の視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感が在る。
此れは同じものを探そうとする意識に対して、
何だか違うもの・何だかオカシイものを探す力である。
いつもと違うものが目に付くとか、何だか変な音や変な匂いや味がする。
又、いつもと何処か感覚が違うなどという様に、以前には無かったのに今生じている
謂わば異常を察知する力でもあるのだ。
処が、自分の心や体は何処かで違うというサインを出しているのに、
変わらないものしか受け付けようとしない意識が自分の感覚を無視して
“そんな事無いわ。思い過ごしや”等と勝手に修正して、
常識だとか普通はこうだから・今までに其の前例は無いから等と言う理由で、
本来大切である知覚・感覚の出番を無くさせてしまう。
昨今“空気を読む”なんて事がまるで常識の様に求められるが、
其れは同じである事を求める意識の役割で、
実は其れと同時に其の意識に流されずに己の中の何だか違うという感覚で
“空気を読まない”自分の感じた事を素直に認めて怖れずに“言う力”も必要だ。
何でも相反するものをどのバランスで取り入れて表現するかという事は、
一人々に求められるとても大事な事である。
(養老孟司さんのお話を聞いて)