2017年 6月
陰陽の法則に基づけば、全ての物事は二極に分かれます。
当然、大元は一つなのですが、同じ一つの物事をみても、其々の立場や環境に依って
そこに見える景色は違って見えます。
好きと嫌い・好意と悪意・嬉しいと悲しい・共感と反感・気が良いと気が悪い
同じものや人を見ている筈なのに不思議ですよね?
以前に唯識の話をしました。
人は物事の全てを自分の意識、即ち心に依って決めている。
だから自分の心が見たい形でしか見ないのです。
例えば、人から親切にされても、それを嬉しいとありがとうで取る人と、
余計なお世話やとばかりに嫌なお節介と取る人もいます。
自分の心に毒が入っていなければ、素直に感謝出来る筈です。
この間、三木へ出掛けた時に、勿論こちらが心を開いていたからではありますが、
行く処行く処、会う人会う人にとても親切にしてもらいました。
相手に対して何の疑いも持たずに、情が濃いんでしょうね。
とっても嬉しかったですよ。
逆の立場になれば自分も人にそうしてあげたいと思えました。
人の意志というのは、それが自分にとってどうなのかを常に“はかる”ものです。
その“はかる”は、色んな意味があって、
測る・・・予測を立てる
計る・・・計算する
量る・・・その重さ及び重要さを考える
図る・・・物事を組み立てて企画する
諮る・・・自分以外の第三者に委ねる
謀る・・・これのみ悪意が存在し、人を貶め騙す
これらの意味がある訳ですが、この中で最後の謀るだけは出来る事ならそれぞれの意思で
しない様にストップをかけるべきです。
以前こんな目に合わされたから、復讐したるというのもそれに当たります。
世界各地でのテロも正しくそうで、憎しみの連鎖は何も生み出しません。
もしあなたが理不尽な目に合ったとしても、それに復讐をしてバチを当てるのは
あなたの役割ではありません。
逆にその時に気が付かなければいけないのは、これ迄に自分がその人にしてきた事が
今この形となって返って来ているのかもしれないと自己内省する事です。
それが出来れば、誰でもお釈迦さんになれるんです。
良く物事が御破算になってしまう事をオシャカになると言いますが、
私は己の我を捨てる事、即ち“お捨我”になる意味だと思います。
全ての事柄は、自らに由るのです。
それが本当の意味での“自由”なんですよ。