2017年10月
誰でも生きていれば、あなたの心の畑に何処からか何らかの種が飛んで来る事があります。
それは、誰かに飛ばされたのか、それともタンポポの種の様に気が付いたら其処にあったのか、
又は自分で撒いてしまう場合もあります。
それが何なのかはその時その時、人によって色々でしょうが、
これから始まるであろうコトの原因の種、即ち“根本要因”となるのです。
そうやって撒かれた種は、植物が大きくなる時に必要な土と水と光がある様に
その種が成長して変化していく為の“補助要因”があるのです。
健やかに大きく綺麗な花を咲かすのか、それとも毒の花を咲かせてしまうのか、
又は咲かずじまいで腐らせてしまうのか。
その結果を定めるのは他の誰でも無い自分自身の選択と決断でしかないのです。
例えば、ご主人が交通事故を起こしたとします。
これは起こそうと思って起こしたものではなく、正しく飛んできた種ですよね。
その種を“車は買うたトコやのに、こんな事してしもて一体どないするの!”と
奥さんであるあなたがヒステリーを起こしてご主人を責めたとします。
でも、この事故は不倫の浮気の様に決して確信犯では無いのですから、
その責めがあまりにもヒドイと“起きてもた事を今更俺にどないせえ言うんや!”と
ご主人も怒るかもしれません。
するとあなたは今度は“事故を起こしたのはあんたやのに私に逆ギレなん!?”となって
益々険悪な墓穴を掘ってしまいます。
わかりますよね?その現実を受け入れない気持ちが補助要因となって
毒の花を咲かせてしまうのです。
それに対して反対に“怪我せんで良かったな。ましてや人を撥ねてまわんで良かったわ
車の破損ぐらいで済んで良かったな”とあなたが大きな気持ちで現実を受け止めてあげれば、
何より“こんな事してしもて・・・”と罪の意識を感じているのはご主人ですから、
その罪悪感を軽くしてもらった事に心からあなたに感謝する筈です。
一見すると不幸の種ですが、この奥さんは賢い補助要因によって綺麗な花を咲かせたんです。
これは決して綺麗事の理想論を言っているのではなく、誰でもその補助要因によって
結果を変えてしまう怖れもあり、逆に“災い転じて福となす”という喩えもある様に
良い結果に変える事も出来るのです。
いつも物事の選択の交差点に立っている私達は、
する・しない、言う・言わない、行く・行かない、添う・添わないetc・・・。
行動の原点は全て自分自身が決めるのです。
一番の基本として昔から私がずっと言っております
“人が生きて行くという事は常に選択・判断・決断・実行、この四項目の連続なんですよ”
という恩思恵を忘れてはいけません。
仏教用語で“無上正覚(これ以上そこに何も載せずに事実をそのまま覚る)”
“現成受容(目の前に現れた事実となった事をしっかりと受け止め受け入れる)”
この二つの言葉があります。
正しく私が今回お伝えしている事と同じです。