2021年1月
2021年静かな幕開けとなりました。
まさか正月を祝ってはいけないという事は無いでしょうが、
西宮戎の福男の神事もなくなりましたしね。
息子や娘の帰省もなしといった現状です。
でも、いつも言っております様に、それをだからアカンではなく、だから良かったと変換すれば、
本来新年は厳かに迎えるもので、家族でお屠蘇やお雑煮を食べて、静かに仲良く祝うものでした。
当然外へ出てもお店は全部正月休みで閑散としていました。
何処で買い物も出来なく、貯まったお年玉は又後に使うという事で、
誰もいない田んぼで凧を上げて遊んでいました。
親は何処かへ出かける訳でもなく、家でお酒を飲んでいましたしね。
そう考えれば、只あの頃に戻っただけで、このコロナの状態をある意味嘆き悲しまなくても、
そのままステイホームを受け止めれば良いんじゃないかと思います。
まあ、若者は生まれた時からコンビニをはじめ、元日営業は当たり前の世代ですから、
“えーっ!”って事になり、家に居る辛抱も出来ないのかもしれませんが、
それこそスマホ一つあれば何処にいても人や情報と繋がれるツールはある訳ですし、
一人一人がこの状態に✕を付けずに柔らかく“まあえっか”と◯を付けて、受け止めていけば、
小ちゃな我慢が集まって大きな成果になって行くかもしれないのです。
その時に、“なんで自分ばっかりがこんな思いをせなアカンのん”となると、
途端にそこに被害者意識が入ってしまいますから、心はちっとも楽じゃありません。
それどころか、しんどい毒が入ってしまうのです。
この間、千日回峰行を成した塩沼亮潤さんという大阿闍梨さんがインタビューを受けて、
“そんな前人未到の修行を終えられた後に体得された悟りは何でしょうか?”の問いかけに、
“この世の中を生きて行くのに、大上段に構えた大層な事は何もいらない。
日々にこやかに楽しく楽に生きられれば十分や、という答えに行き着きました”
と話されていました。
そうなんですよね、生きて行く上で自分の思い通りになる事の方が当然少なく、
いつ何が起きるかなんて誰にも分かりません。
それに怯えて不安を増大させたり、そうなったら困ると転ばぬ先の杖を百本用意した処で、
来る時には来ますし、起こる時には起こります。
そうであるなら、仮令そんな事が起きたとしても、ソレを受け止められるだけの
柔らかさを持って、首と肩の力を抜いて、楽に過ごして行きたいものです。
勿論、一人一人が越えなければならない坂はちゃんと分かった上での話ですよ。
この頃よく思うんです。“もういっぺん会いたいな”と思ってもらえる自分でいたいなと。
あなたの中にも、もういっぺん会いたいなと思う人はいる筈です。
何でそう思うのか、その人の魅力は何なのかと考えた時に、共通して言えるのは、
その人が“いつ会ってもニコニコとして柔らかい笑顔でいる”という事なんだと思いますよ。
私もお人に対して、元気と嬉しさを渡せる存在でありたいなと願います。
皆さんその思いを持って“楽ーっ”にもう少しの間頑張ってみましょうね。
今年も一年よろしくお願い致します。