2022年7月
後になって振り返ってみて、後悔することのない様にというのは物事を決める時の
大事なポイントではありますが、イザその時には今の自分のエモーショナルな感情や、
損得の勘定が先に立ってしまい、“コレをしたらどうなるか、又しなかったらどうなるか”
というその先を観る・考える力が後回しになってしまいがちです。
誰だっていつもいつも正しい選択をし続けられる訳ではありませんから、
“あちゃちゃあ!”てコトもあり、“何であんな事決めてもてんやろ”
“何であの時そうせえへんかってんやろ”なんてコトもあります。
そうなっては困りますもんね。
最近も私事ですが、二つ程“感情と勘定”を越えた出来事がありました。
一つはその場の人の雰囲気や空気の異常を察知して、
“このままやったらアカンわ、何とかせな”と感じ、“でも何で当事者でもないワシが”
と思わんでもなかったけど、“今やっぱり自分がこうしておかなアカンやろ”という
瞬時の判断で、誰もヤケドせん様に敢えて火中の栗を拾ったコトです。
無事治めた後でのメンタルエネルギーの消費はそらそら大きかったけどね。
そしてもう一つは損得勘定の話で、その人とは言ってしまえば、
血の繋がりもない他人さんなんですが、これまでの関係もあり、切ることもせずなのか、
出来なかったのか、とにかくその都度出来る範囲でのお世話は続けて来た。
その挙句がその人が空けた穴の補填でした。
出来ない額ではないにせよ、ちょっとまとまったある程度のモノです。
周りの人たちは、“他人やのに何もそこまでせんでもエエんちゃうん”なんて
言ってくれましたが、そこでさっき言った“もしここでせんかったら・断ったらどうやろか、
後悔せんやろか、他の人に迷惑が及んでも困るし”と何度も何度も熟考した後、
“しとったり、しとったったら自分が後味悪い思いせんと綺麗に居れるんちゃう?”という
妻の背中押しで損得の勘定の壁を越えました。私サイドの人の話なのにです。
一つはその場の瞬時の判断で、もう一つは時間をかけた熟考で、どちらにしても
後々のコトを考えた上での自己納得を取ったんです。そこに後悔は何もありません。
“しといて良かった・しとったって良かった”という思いだけです。
人はつい目先の欲得や華やかさやすごいコトであるかどうかで、
物事や行為の価値判断をしようとしますが、今も昔も決してそうではありません。
マザーテレサの言葉で、“どれだけ沢山のことをしたかではなく、どれだけ立派な
ことをしたかでもなく、どれだけ心を込めてしたかが大事である”というのがあります。
あなたは日々の暮らしの中でこの様に“心を込めて”出来ていますか?
大層なことは要りません。小さな可愛らしい気持ちで十分なんです。
人の行動の先にはそれが仮令どんな小さな行為であれ、それを受け取る相手がいます。
その相手が自分自身である場合もあります。
自他問わず“心を込めて”というのは、とても綺麗で大事な日本人の美徳だと思います。
決して損ではありませんよ。