2025年9月
“月に叢雲 花に風”の例えがある様に、叢雲とは小さな雲が群がり集(たか)りて、
綺麗なものや、そうあって欲しい形を隠してしまう・崩してしまう様を表しています。
この暑い8月の終わりに、この伊和神社へ孫も含めて家族でお祓いに行って来ました。
此処へは、先々代・先代と代々の神主さんにお世話になっています。
又、今の若い神主さんに引き継がれて、幾分の厳かさの簡素化は否めませんが、
一人一人の願いを個別にオリジナルの祝詞の文言に変えて、
奉じて下さるのに変わりはありません。
今年は妻の突然の発病や、孫の怪我、手術など、色々なアクシデントに見舞われましたから、
そのお祓いです。
ママさんは、その結果、何を得たか・感じたかというと、後遺症はあるものの、助かった。
その為にお世話になったリハビリも含めての医療関係者の方々と、
こんなにも自分の事を気に掛けて心配してくれる人達がいてくれたんだ。
その人達の想いが背中を押してくれて頑張れたんだという
言葉に出来ない程の感謝だそうです。その想いもお伝えしていました。
すると、八百万の神様をご招聘の後、
“汝の感ずる感謝の念・報恩の念は、皆全て神様への感謝に繋がりて、
まずその由故汝を救い給うたのであろう。神はこの先も恙無く健やかに導き給えり”と。
そして小6の孫息子へと移り、“優しい子なんだけど思春期の入口でもあり、
カッコ付けて素直になれずなのか・ならずなのか、その場誤魔化しのウソをついて、
正す親の言う事を聞かない”事前にその旨も伝えていました。
そこではじめの話です。
“黒き叢雲集りて美しき月をば隠せども、清々しき風吹き渡りて、
悪しき叢雲吹き消すが如く、汝虚言悪口の悪き言の葉、
油断をすれば時に罪に繋がりかねぬ悪き心を
吹き消し給え、吹き清め給え 畏み畏み申さく”と祝詞は続きました。
誰でも生きていれば思いも掛けぬ叢雲が掛かり、その本来あるべき美しい形が、
見えなくなってしまう事もあります。
でも簡単に諦めて、頑張る事を辞めてしまったり、又、その状態に業を煮やして、
してはいけない事をしてしまったり、してはいけないのです。
あなたを案じて心配してくれる人の為に、そして何よりあなた自身が、
澱んで濁ってしまわない為になんです。
誰が見ていなくても、神様は見ていなさる。“天知る・地知る・我知る”という事でしょう。
奴も全く初めての体験に正座をして、神妙にしていましたが、
果たしてその神意と真意は、彼に入ったのでしょうか。
しっかりとした意味は分からずとも、自分の為に取って貰った時間の
厳かさが伝わっている事を心から願います。