2007年 3月
今月は、それぞれの“生きる場所”について考えてみたいと思います。
植物にも、その種類によって、それぞれの生きる場所が違います。
燦々と太陽をいっぱい浴びる場所、半日陰で一日の内少しの時間だけ太陽の光を浴びる場所、
日陰で太陽の光が当たらない場所と、住む場所が分かれているように、
人にも又、“生きる場所は決して皆同じでは無いんだ”という事を感じます。
これは何も差別ではなく、本人が何があっても、他人からどう見られようと
其処が自分の居る場所だと思うのならば、
無理やり“そうではないやろ”と、違う価値観で
其処から引っ張り出そうとしてはいけないのかもしれません。
例えば、愛情いっぱいに育まれ、何の苦労も無くこれた者が、全く悪気は無く、
複雑な、謂わば一般的な見方ですれば、暗い人生を送ってきた人に、
“そんな暗い処に居ったらあかん。もっとお陽さんの当たる処に出て来なあかん”と
明るい場所に引っ張ったところで、相手がとてもその場所が居心地が悪ければ、
それはその人の生きる場所ではないのでしょう。
向日葵が日陰で咲く羊歯を引っ張って来たとしても、
“ほらお陽さんの光は、こんなに暖かいだろ”と良かれと思って言ってやっても、
羊歯は“気遣ってくれてありがとう。でも僕は此処では生きられないんだ”と枯れてしまうでしょう。
何も向日葵が悪い訳ではありません。
人各々の生きる場所が違うだけなんです。
其処に居れば逆に、“自分はそうじゃないんだ。幾ら頑張ってもそうなれないんだ”と
余計に自分の惨めさを際立たされてしまう事もあるのです。
陰と陽とか、ネガティブ・ポジティブとなると、
ともすれば、皆疑いも無く、陽とポジティブが正しくて、陰とネガティブが間違っていると
非常に単一的に思い込みがちですが、生きる場所が違えば自ずと其処に生ずる価値観も違って当然です。
ただ、どんな場所であろうと、
本人が被害者意識(どうせとか、やっぱりそうなんやという思い)さえ持たなければ、
其処が一番居心地の良い“生きる場所”になるのです。
本当に良いか悪いか等と言うのは、画一的なステレオタイプで分けることは出来ないんだなと
つくづく思います。皆さんはどうでしょうか。