2014年 8月
“懐古せど 昭和は遠く なりにけり”
考えてみれば平成の世の中になって、もう早四半世紀以上経つんですから、
それも当然の事なんですね。
考え方とか価値観とか人としてどうあるべきかなんていう形も、
その時代と共にどんどん変わって行くんだなと感じます。
義理や人情なんて言うと“めっちゃ昭和やん!”と揶揄されそうです。
若い人だけではなく、ある程度歳を重ねた者でさえ、自分の権利の主張が先に立ち、
エゴイズムなんて考える事もなく、それをすれば人がどう思うかもお構いなしに、
自己主張をするのが何だか当たり前になり、“当然の権利やん”で済まそうとします。
新聞でこんな面白い話を聞きました。
大学の講師をしていて、仕事に対してはやりがいを感じているのだが、
意欲興味を持って聴いてくれる学生は半分にも満たず、時には一割程度の事もある。
多くの学生は私語やスマホ・内職ばかりで何度注意しても改善されない。
“聴くつもりが無いのなら出席しなくて良い。講義に関係のない行為は周囲の迷惑になる”
と説明し、退室を求めた。
すると、“自分達は先生の講義をやめろとは言っていない、
だから先生がスマホや私語をやめろというのは不公平であり、
決める権利は授業料を払っている自分達側にある。
入試をパスして入ったからには大学側には選ぶ権利は無い。
講義に来るも来ないも私語やスマホをするも、
それは自分達の行動選択の自由であり、当然の権利”なんだそうです。
昭和世代の我々としては、正しく
“何考えとんじゃ!その金やったって親に出してもろとんやろが!
そもそも悪いという常識に対する罪悪感は無いのか!?”と言いたくもなりますよね。
ところが今や殆どの大学は大衆化し、ファミレスと同じになってしまいました。
ファミレスに出された料理に手も付けずに喋り続けていても、ずっとスマホをしていても、
誰にも叱られません。ファミレスとは“そういう場所”だからです。
そうなると“金を払ったお客だから”という同じ論理で括るのです。
幾ら其れがおかしい・怪体やと思っても、
一点の曇りも無く自分の行動を、端から当然だと思い込んでいる者には
言って聞かせるどころか何の太刀打も出来ないのです。
こう思う我々の方が実は骨董品の様な“昭和侍なんやろか”と、ふと考えてしまいます。
江戸から明治に変わった時の様に、
人としての正しい形を唱えている“昭和の生き残り”もその内駆逐されて行くんでしょうか。
敬語の消失化のタメ口や、ら抜き言葉の様に・・・。
大多数の位置付けが変われば、善悪の位置付けも変わってしまう事があるのが
何だか怖いですね。
今の政治もそんなパワーゲームの様な気がしますが。