2015年11月
この間、京都国立博物館に“琳派400年”の展覧会を見に行って来ましたが、
そりゃものすごい美の迫力でした。
光悦・宗達・光琳・乾山・抱一など一同の響宴です。
米粒の様な萩の花や小さな白菊の花があれ程の力を持って迫って来るのは一体何故か?
と考えた時に、勿論、“風神・雷神”等の様に其れ自体迫力があるものもあるのですが、
それにしても、二双屏風の右と左の端と端に描かれ、
其の真ん中に大き過ぎる程の空間を取っています。
ですが、何もないから間が抜けているのではなく、逆に其処に何も無い・描かないからこそ
一見無駄の様に思えても、在るものがより価値を持って来るのです。
所謂、“余白の美”というものですね。
言葉と言葉のあいだの“間”というのも在りますが、日本人はその昔より“間”というのを
非常に大切にして来ました。
床の間という空間もそうです。合理的に考えれば
“そんな何も無い空間は無駄であり、其処にクローゼットや本箱を作ればエエやないか”
となるのでしょうが、何も無いのではなく、其処には
ゆとり・落ち着き・品格・広がり、という目には見えない無限のものが存在するのです。
人と人との間というのもそうで、“不安やから・心配やから”という理由で、
その相手との間を全て塗り潰してしまってはいけません。
禅問答の様になりますが、何も無いから何も無いのではなく、
沈黙の真実というのも在ります。
人は生きて行く時に全ての物事を“有ると失い”の世界に分け、
有るから○・失いから×。逆に有るから困る・失いから良かった等と
全て人と比べて自分がどうかという価値観に振り回されがちです。
しかし“有ると失い”の間には、無であり空であるという世界が在るのです。
どっぷりと自分の居る世界・日常に浸かっていると、いつの間にか其れが有って当たり前
になってしまう。其の意味も意義も有り難さも何時しか解らなくなる。
そして其れが失くなってみて、当たり前が壊れて初めて気が付くという事がよくあります。
“心・技・体”という言葉が在る様に、人がどの様に生きるか?にも
其の3つが当て嵌まります。健康の為・長寿の為、節制する。是は“体”ですよね。
次に成功する為に努力して頑張る。是は“技”です。
そして最後の三つ目が、人としての智慧で生きる。是が“心”です。
この様に“体”は生存の為、“技”は生活の為として、其々目に見える事ですが、
“心”は厭く迄、目に見えない自由なものです。
“自由”というと英語のlibertyやfreedomの様に何をしても構わない・縛られない
意味だと思いますが、“自由”という字は“自らに由る”と書きます。
最後は本当の自分を拠り所にして生きて行くという意味なんです。
色々在っても又、元の空や無に戻せる・無くても必要以上に心配しない。
或る意味此の“無であり空である”事の強さを身に付けましょう。
何も難しい事ではありませんよ。