2022年5月
京都東山法然院の貫主さんからの“ああ、なるほどな”と思うお話がありましたので、
そこに私の想いもプラスしてお伝えします。
人が生きるという事は、厄介にも“愛する事をやめられない”に尽きるんです。
愛すると言うとすぐに恋愛に結び付けますが、
マクドのCMでも“I Love it”と言っている様に、仮令ハンバーガーであっても、
“ソレが好き”というのは、LOVE=愛する なんです。
ブランドでも服でも車でも何でも“My Favorite 私のお気に入り”の中には、
自分流の基準があり、ソレが満たされているからこそ“好き”なんです。
となると、知らず知らずの内にそこに“執着”が生まれて来ます。
モノやコト(在り方)でさえ、そうなんですから、
その対象が人物となると、余計に強くなります。
じゃあ、その“執着”とは何かと言うと、
“ソレに相手にこうあって欲しいと思う希望・期待・理想”なんです。
でも、それは飽くまで“あなたの”であり、
勿論親から子への無償の愛なんてのもありますが、
それだって“いつかこの愛が届いて、この子が良くなってくれます様に”
との希望・期待があった上での事です。
そうなると、ソレは“あなたの我・自我”を愛という形で、
その対象に載せてしまう事になります。
愛する事は想う形が返って来れば嬉しさと喜びが与えられ、
そうでなければ悲しみと苦しみがもたらされる。
ある意味残酷ですよね。
そしてその悲苦が相手への憎しみへとすり変わって行っては困ります。
それらの事は重々分かっていても、やっぱり生きて行く上で、
誰だって“愛すること”はやめられないのです。
そうであるなら“愛=執着=自我”なんだという図式を理解して、
“今自分は勝手に私の自我を相手(対象)に載せすぎていないだろうか?
自分の期待する形に執着しすぎていないだろうか?”と、
逆に辿る事が出来れば、自分にも相手にも誰にとっても、
“心地良い愛(愛する事)”が継続出来る筈ですからね。
愛って結局勝手であり、難しいもんですよね。