2023年3月
この2月の末に、妻の母“お母ちゃん”を見送りました。
私と双方合わせて最後の親です。
寂しさはあるものの、享年98歳でしたから、
“よう頑張って生きてくれました。ご苦労さんやったな。楽になりよ”の労いの言葉と、
“ホンマにようしてもろて有難うな”の感謝の思いしかありません。
施設の方にも“よくお世話していただいて有難うございました。
最期が此処で本当に良かったです。”とお礼も言い、改めて顔を見ると、
昭和元年生まれですから、戦争も含め激動の時代を越えて来た100年、
人には言えん苦労もあったやろに、
ホンマに綺麗なシミやシワも無い可愛らしい顔なんです。
思わず触るとツルツルでした。
顔は履歴書、最期の顔にはその人の生きて来た形が表れると言いますが、
“ああ何やかんやあってもキレイに生きたんやな”と実感しました。
そのお母ちゃんの口癖が、“出来んねんやったら、しとったり”でした。
本家の姉さんという立場から、少々無理でもエエカッコというのも
あったのかもしれませんが、身内だけではなく、内外問わずそう言うて、
してあげていました。勿論僕達にもです。
仏教に“四無量心”量りきれない四つの心という教えがあり、
これは“慈悲喜捨”人に慈しみや哀れみの心を喜んで捨てる、
自ら掛ける・渡すという意味です。
相手を思う限りない四つの尊い気持ち、
まずそれが出来る自分が、倖せであるように、
次に身近な者達が倖せであるように、
そしてその他の人達も倖せであるように、
最後にまだこの世に生まれていない者、
又これまで亡くなった人達も倖せであるように、
今と未来と過去全てを含めての安寧を願う心と行為です。
何も特別難しいことはありません。
人として誰もが本来持っている気持ちです。
何だかふと“アンタはこれが出来てるか”と母に言われたような気がして、
この教えが繋がり、送る餞(はなむけ)にしたいと思いました。
親を見送るという経験は誰もに訪れますが、
有難うの言葉で終われるのは何より倖せなことだと身にしみました。