2011年10月
今現在は、中国の社会主義的支配から逃れ、インド北部にチベット亡命政府を置き、
其の国の元首でもあるダライ・ラマ法王はノーベル平和賞も受賞している偉大な人物です。
其のチベット密教の法であるダライ・ラマ氏に或るインタビューアーが尋ねました。
“人は何の為に産まれ、何の為に生きて行くんでしょうか?”と。
するとダライ・ラマ法王は柔和な笑みを浮かべ、
“それはな、人として生まれたからには倖せになる為に決まっている。
そして生きていくのも又倖せになる為に然り。
貴方もそうでしょう?でも倖せになりたいと願っているのは何も貴方だけではない。
生きている全てのものが願っている事。其処で少しだけ知恵を使いなさい。
何も難しい事ではない、たった二つだけの事を心に留め置いておればいいだけの事です”
“まず一つ目は、お人の邪魔をせぬ様に、二つ目は、自分に無理をせぬ様に、たった是だけの事なんじゃ”
という答えを返されました。
是を聞いた時に“ああほんまにそうやな、一番簡単なことやけど実は一番難しい事なのかもしれへんな。
深い言葉やな”と感じました。
人は生きておれば、この資本主義経済の下では歴然と競争原理に基いた形を余儀なくされます。
相手に勝つ為には自ずと人を蹴落としてでもという結果になり、
其れが出来ない者は×のレッテルを貼られ淘汰されがちです。
其処でも当然勝つ事に因って倖せへの道を求めるのでしょうが、
ただ皆が皆、全員いくら倖せになる為とはいえ、己の欲望だけで突っ走ってしまっていいものでしょうか?
是を読んでくれている皆さんなら当然NOだと解りますよね?
“自分も倖せになったらいいけど、自分以外の人の倖せも願う”
是がお人の邪魔をせぬようにという事です。
同時に其の時に自分をより大きく見せたいが為、必要以上の欲に駆られて、いつもの状態を逸脱する。
是では本当の倖せを掴んだ事にはなりません。
是が自分に無理をせぬようにという事でしょう。
“私はそんな人の足を引っ張るような意地悪をする人間ではない”という人もいますが、
何も表立って人を攻撃するだけが人の邪魔をするという事ではなく、寧ろ“私なんか私なんか”と
自己否定をし、自分の力で歩けないというのも人の邪魔をしている形なんですよ。
自己主張しない過度の遠慮も過ぎれば人にとっては迷惑です。
“面倒くさいやっちゃ”ということですよね。
中々其のバランスは難しいかもしれませんが、自分も含め皆が其々の形で倖せになれたらいいのにと
願う事は誰にでも出来る事であり、又出来る筈です。
自然に日々の暮らしの中でそう思えたならば、自分でも知らぬ内に倖せな心になれているんですよ。