2012年 9月
この世の事は全て“陰と陽”である。この教えを表すのに“月と太陽”があります。
太陽は“お天道様”と言われる様に、正しく正しき天の道。月は其れを受けて光る、受け身の形。
人が生きて行くのも又、いつも変わらず輝き続ける太陽ではなく、
満ち欠けを繰り返す月の様なものかもしれません。
作家の高田郁さんの本の中にこ同じ様な思いの文が在りました。
「幼い頃に二親を無くし、小さな弟の面倒を見ながら奉公に出ている少女が、
見事なまでに丸い丸い月を自分の人差し指でなぞり乍ら、
“あんなふうに何処も欠けていない幸せが在ればいいのに”とつぶやいた。
一緒に月を見上げながら、其の子の面倒を見ているおかみさんが、
“あちこち欠けて傷ついて、それでも人は生きて行かなならん。なんと難儀な事やろか。
今は丸いあのお月さんも、明日から又徐々に身を削がれて晦日には消えてしまう。
けど時が経てば少しづつ身幅を広げて又あの丸い姿に戻る。
人の幸せも似た様なもんやろな。ええ事も悪い事もどっちも長うは続かへん。
色々在っても、せめても丸い幸せをと願い続けて生きて行くのかもしれへんな”と
小さな背中を抱きしめた。其々が其々の切なさを胸に秘めて、青い月をただ眺めていた」
そうなんですよね。太陽は直接目で見ることは出来ませんが、
お月さんは直接自分の目で見上げる事が出来るんですよね。
勿論幸せな時もあるでしょうが、何だか月を眺めるという風情には、
憂いと切なさが付き物の様な気がします。
其の姿形を変えて行くという月に、古来日本人は様々な名前を付けました。
新月に始まり、眉月(三日月)、上弦の月(半月)、十三夜、十五夜(満月)、十六夜、
特に其れからが全て“待つ”という名前が付きます。立待月、居待月、寝待月、更待月という風に。
前にもお話ししましたが、日本には昔からやはり“待つ”という文化が在ったんでしょうね。
自らの幸せを自らの手で取りに行く・奪いに行くという方法も在るのかもしれませんが、
この頃の隣国との諍いを見ていても、日本人として其の本質を尽くす為には、
是れも大事な知恵かもしれません。
其々が自分に出来る事を全うした上で“待つ”
これは決して他力本願ではなく、れっきとした自己意思と其れを手にする為の手段なんですよ。
中秋の名月がやって来ます。
あなたも時にはゆったりとした気持ちでお月さんを眺めてご覧なさい。
其の時に何を感じるでしょうか・・・。何を想うでしょうか。