2018年 6月
人が正直に生きるとは一体どういう事なのでしょうか!?
皆さんも最近は考えてしまうと思います。
もう何年もに渡ってはぐらかし続けている、安倍首相の森友・加計問題を
まるで縮小コピーしたかの様な日大アメフト部の事件が起こりました。
本人がどこまでも認めていないモノをウソだと言い切ってはいけないのでしょうが、
事が発覚すれば己の保身の為に発した言葉を飽くまで守り切ろうと証拠はなかったとし、
その裏では破棄し、残すべき書類は改竄し、無いとしたモノを追求されれば、
今度は“記憶の限りでは覚えてない”とし、それでも不利になれば
その情報やそのコト自体を“誤報でした”とする。
もう分かっていても周りがウンザリとしてしまうのを待って、幕引きをする。
総理・官僚と愛媛県知事・職員そして今回の監督・コーチと加害者選手、全く同じ図式です。
仮令、最後の直截的な言葉は言わなかったにせよ、その絶対的権力から来る計り知れない圧は、
いとも簡単にソレを持たない者を傷付け、抹殺してしまいます。
悲しいですがコレが現実です。
一つのウソを付くと、それを塗り固める為に、又ウソを付かなければならないのです。
自分の下に付く者をも巻き込んで延々と。
人は法廷でも無い限り、どんな場面でも絶対に嘘を付いてはならないという訳ではありません。
“いつまでも寝えへんかったらオバケが出て来るで”
“言う事聞かへん悪い子はオニさんに取られてまうで”などと子供の躾にある様な、
相手が良くなる為の相手を思いやって付く嘘は許されます。
ホントはそうでないのかもしれませんが、落ち込んでいる人を励ます為に、
盛るウソも又然りです。
只、自分の欲と保身の為に付く嘘、相手を傷付け貶める為に付く嘘は、
どう考えても人としてすべきではありません。
今回は、“嘘をつく”という事を取り上げましたが、
それ以外の事でも私がいつも言っております様に、
人として、“してもエエ事・したらアカン事・嫌でもせなイカン事”、
この三つを何をする時にでも、まず先に頭に思い浮かべて、
今からしようとする事と照らし合わせてから行動する様にしたいもんです。
誰であっても必ずどうするべきかは解る筈ですからね。