2012年 7月
考えてみればその教えの根底は、キリスト教も仏教もどの宗派に限らず同じだと思いますが、
外国ではその宗教の違いに端を発し、大昔から現在に至るまで未だに争いは絶えません。
その昔の笹川良一さんではないですが、“人類皆兄弟”と看做すならば、
なぜ共存出来ないのでしょう。
人は其々同じなどではなく、皆其々個性を持って一人一人違うんだと解っていれば、
違っていて当たり前と受け止めることは出来る筈なんですがね。
今回お話しするのは“禅の教え”ですが、
「仏性は仏の中のみに在らず、人の中にも在り即ち心が仏なり。
ならば即心成仏とは如何なるものか?
同じ音でもこの即身成仏が在りますが、是は究極の修行の行き着く末に断食をし、
我が身をそのまま生きたままミイラとなり仏と成すということですが、普通我々凡人はそうではなく
毎日の暮らしの中で出来るだけ仏に近い心を持つということです。」
そしたら今度は“仏さんの心って何? そんなん成れるのかな?”と思いますよね?
でも何も難しい事ではありません。誰でも心がけ次第で持てる筈です。
まず“貪り”誰にもやらへん、全部自分のもんや!損をするのは絶対嫌!と物事全て損得で捉え、
人と分かち合うことを一切しない。
次に“瞋り(いかり)”自分と考えの違うものや価値観の違うものを排除しようとする。
何でそうなんやと相手を罵り、相手が解ってくれなければキレる・激怒する。
相違を一切受け入れようとしない。
そして最後に“痴かさ(おろかさ)”事が上手く運ぶ内は良いが、一つ行き詰ったり
上手く行かなくなると、まずは自分の何処があかんかったんやろ?と考える反省から始まるべきなのに
途端に人の所為から始まる。
“世の中が・会社が・上司が・親が・あいつが”と並べ立て全て自分以外のモノに責任転嫁する。
自己反省を一切しない。
この三つを自我の中に持ち続けると、俗に言う“煩悩”となり、
仏の心とは程遠いのは言うまでもありません。
是を“三痴三悩”といい、幾ら自分を可哀想と思い悩んでいても、全ては其の端はこの三つの内
のどれかから来ています。間違いなく其れが悩みの源となるのです。
出来るだけこの三つを捨てた上で自他共の倖せを願う事なり。これが“即心成仏”の教えです。
勿論生きておれば色々な不満や不足は出て来るでしょう。ですがこんな言葉があります。
“愚痴は闇路の続きなり”痴という字はさっきおろかと読むと言いましたよね?
知恵が病気になるという事、すると愚痴はおろか々となり、そのダブルのおろかさに囚われて
いる限りは、何処まで行っても暗闇の中をぐるぐる回るだけで、陽の射す道になど
いつまで経っても出られる筈もないのです。
大事なのはそうであるならば次にどうすればいいか・良くなるかの次の一手を考えられる力を
持つ事です。自分も含めて冷静に事態を観る事が出来れば誰でも必ず出来る事なんですよ。