2018年 8月
♪一年生になったら友達百人出来るかな♪なんて歌がありますが、
小学校などの小さい間はクラスという括りの単位がありますから、
百人は別としても共に学んで行く身として友達は多いに越した事はありません。
でもその中であっても、イジメなどという弾き出しはある訳ですが、
段々と歳を重ねるにつれて“皆んなと仲良くしなければいけません”なんていう
幼児的躾は薄れて行き、その友達の範疇はそれぞれ一人一人が決めて行く事になります。
そうなると、友達なんていうのは実はそれ程多くなくても良いのではないかと思います。
誰からも好かれるとか、みんなに愛されるなんていうのは、抑も無理な話です。
非の打ち所がない様に振る舞っていても、その隙の無さが鼻に付くと言われる場合も
ありますし、逆に欠点だらけであってもそれが愛嬌があって可愛いと取られる場合もあります。
長所と短所は紙一重であって、“愚図とほんわか”“イラチと素早い”“自己中とリーダーシップ”
などと言う様に、それをどう取るかは相手が決める事です。
こっちから一々“こう取って欲しい”なんて求める事は出来ません。
この様に現実の人間関係というのは、自分の思いと相手の思いが常に一致するとは限りません。
そのハードルが高くて嫌だから、現実の煩わしさを避けて、SNSで繋がっている筈なのに、
そのSNS全盛の今“つながり孤独”なんていう現象が出て来ています。
現実に人と繋がるのが煩わしいと避けた人は、
言い換えれば一人孤独の方が良いと判断したんですよね?
なのに今度はその中で良い事だけのリア充を盛って、
必要以上にインスタ映えなどと言ってキラキラ過剰を発信する。
自分の承認欲求を満たしたいが為に“いいね”だけを求めて常にその数字に縛られる。
そこで、“みんながこんなに楽しそうなのに自分はそうじゃない。”
“共感してくれる数もこんなに少ない。自分はひとりぼっちだ。”
“繋がっているのに孤独だ”と感じるらしいです。
はっきり言ってよく分かりません。
それを求めたのも自分ならば、
そこから派生する結果もまた自分が受け止めなければいけません。
抑も、人は人だし自分は自分、決して同じになれる訳ではありません。
孤独の孤という字は、“親を失くした子供・みなしご”という意味です。
そう言っている人には天涯孤独ではなくちゃんと親も居ますし、もう子供でもありません。
孤独の何がアカンのん?孤独の何処がイカンのん?
一生ずっとという訳ではなく、時に感じる孤独というのは、
自分を直視する内省のトレーニングです。
生きて行く上で必要な要素です。
現実の人間関係を“気を遣うから嫌”というのもおかしな話で、
人は“遣う為に気を持っている”のですから。
家族に対してもそうですし、ましてや他人さんには尚の事、気を遣った後の
その疲れを癒す為にあるのが“孤独=一人の時間”だという事を忘れてはいけません。
孤独は必ず人に“気付きの成長”を与えますからね。